3.11被災地である
「鵜住居(うのすまい)」
「鵜住居(うのすまい)」
に初めて来ました。
小中児童生徒562名が
河口付近の学校から
駆けて駆けて
自分たちで判断して
さらに高台まで駆けて
駆けて駆けて
自分たちで判断して
さらに高台まで駆けて
津波から自分たちの命を守った話を
覚えている人も多いのでは?
↓ これだけの距離、走る自信ない、、、
覚えている人も多いのでは?
↓ これだけの距離、走る自信ない、、、
私の生まれ育った地元
東京都江東区は海抜ゼロメートル地帯、、、
昔から危ない危ないと言われてるけど
そんな標語もなければ
机の下に隠れるくらいの避難訓練しか
したことない、、、どうしていいか自信ない、、、
小中学生の取り組みが掲示されていたのですが
中学生の取り組みで
津波の速さを体感する=時速36kmの車から逃げる
という体験をしてました。時速36kmかあ、、、
中学生のアイデア
「避難しました」という黄色い札も
体験者だからこその発明ですね。
「避難しました」という黄色い札も
体験者だからこその発明ですね。
最初、この地名が読めなかった…
鵜住居(うのすまい)
岩手県 釜石市 鵜住居町
ラグビーファンにとっては
今年9月に開催される
ラグビーワールドカップの
会場としてよくご存知の地名ですね。
「釜石・鵜住居(うのすまい)復興スタジアム」
そのスタジアムは、この子供たちがあの日居た
小中学校の跡地です。津波で全壊した場所に
昨年、復興スタジアムが完成しました。
3月11日20:00という手書きのメモ ↓
「火葬は検視後」
「火葬をしたいが軽油(灯油も)手に入らない」
「火葬してもお骨の安置場所がないので
その辺をどう考えているのか」
3月17日ようやくword資料に ↓
パレットを持参している私は
このパレットが目に焼き付いて
離れませんでした ↓
子どもたちの奇跡があった一方で
「防災センター」へ避難した196名のうち
162名が亡くなられました
「2階ホールの天井から
顔ひとつ分の隙間を残す高さまで
津波が到達」
津波が到達」
「2階の屋上には上がれない構造だった」
そして驚いたのが
「防災センター」は「津波の緊急避難所」ではなかった
そして驚いたのが
「防災センター」は「津波の緊急避難所」ではなかった
「ハザードマップ」は「安心マップ」ではない
ということ
ということ
「防災センターという名称から
津波の緊急避難所であるという誤解があった
「防災センターは災害時の
拠点避難所(中長期の避難生活を送る場所)であり
津波の緊急避難所ではありませんでした。一方で
洪水や土砂災害の緊急避難所であるという
分かりづらいものであり、十分周知されていませんでした」
でも津波の緊急避難場所として
訓練で利用されていた
「町内会主催の津波避難訓練では
訓練の参加率を揚げるためなどの理由から
高台の屋外にある緊急避難場所に代わって
防災センターが避難場所として利用されていました」
市民1064人の犠牲者のうち
997人分の芳名板と献花台
「備える」「逃げる」「戻らない」
「語り継ぐ」の4つの行動を刻んだ
「語り継ぐ」の4つの行動を刻んだ
「防災市民憲章碑」も建立されています。
この碑の板の高さまで津波が来たそうです。
ここから芳名板と献花台を見下ろすと
スーツ姿の視察団の方達がバスで来ていました。
わたしが滞在した3日間も
バスや車で、スーツ姿の人たちが
たくさん訪れていました。
でも、、、すぐそのまま次の場所へ移動、、、
どこまで鵜住居で滞在してもらえるかは
これからなのかな、、、
近くにお土産が買えたり食事ができる
「鵜の郷交流館」も同じ3月に完成。
津波伝承施設「いのちをつなぐ未来館」
追悼施設「釜石祈りのパーク」
観光交流拠点施設「鵜の郷交流館」
これら3つの施設のある駅前の空間この碑の板の高さまで津波が来たそうです。
ここから芳名板と献花台を見下ろすと
スーツ姿の視察団の方達がバスで来ていました。
わたしが滞在した3日間も
バスや車で、スーツ姿の人たちが
たくさん訪れていました。
でも、、、すぐそのまま次の場所へ移動、、、
どこまで鵜住居で滞在してもらえるかは
これからなのかな、、、
近くにお土産が買えたり食事ができる
「鵜の郷交流館」も同じ3月に完成。
津波伝承施設「いのちをつなぐ未来館」
追悼施設「釜石祈りのパーク」
観光交流拠点施設「鵜の郷交流館」
(鵜住居駅前地区公共施設)を
復興の明かりを「灯(とも)す」
「共」「友」という意味が
込められているそうです。
込められているそうです。
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